エッセイ「香りと記憶」

 

 香りと記憶

 

先日、新大阪のオフィスにむかう道でふと立ち止まり振り返った。

 

わずかにモクセイの香りがしたのだ。ああ、もうそんな季節になったのだなと高い空を見あげた。

 

人が匂いから感じるイメージはとても興味深いものだとおもう。花や樹木などの淡く快い香りは道ゆく人々を癒してくれる。

 

塗料の酸や腐敗した側溝のメタンなど強烈で不快な臭いは決まったモノや具体的な出来事だけと強く結びついているが、淡い香りがもたらすイメージは人それぞれ異なっているようだ。

 

私は成人するまで微かなバナナの匂いを嗅ぐと何だか懐かしい気持ちになり、同時に木造校舎が浮かぶのを不思議に思っていたが、後年それは私が通った幼稚園の裏庭にバナナの木があったからだと分かった。

 

するとさらにほとんど記憶に残っていなかった当時の生活の断片がこぼれ落ちてきた。他の園児が組み立てた積木をワザと蹴とばして叱られたことや、みんなの遊戯時間に屋根伝いに抜け出して遊んだ罰として腕にヨーチンを塗られたりした場面も浮かんだ。

 

神妙な顔をして正座して腕をまくると、幼稚園の先生はヨーチンを塗りながら毎度同じことを繰りかえした。

 

「もー今度また悪いことしたら、このヨーチン塗ったとこから腕が腐るんよ!」と腕白な私に言いきかせようとするのだ。そんなことを微笑ましく思いだす。

 

香りは人の記憶や風景と結びついていて、何かの拍子にその時代の感覚を蘇らせてくれる魔法のようだ。

 

好物の匂いは、嗅ぐだけでちょっと幸せな気分にさせてくれる。

 

仕事帰りに夕餉の匂いがすると、ん、この家は焼き魚だな。ここはすき焼きに違いない。おや、ここは多分うちと同じでカレーだなと。長屋ではなくマンション暮らしでも換気扇のおかげで近所の献立が分かってしまうのも可笑しい。

 

ただし、煙草の匂いは昔から好きではない。扁桃肥大症なので埃や煙に敏感なのである。

 

そんな私だが大学時代、ドイツ語科の担当教授が吹かしていたパイプの煙だけは心地よく感じた。燻製チョコ・フレバーとでもいうのだろう。

 

おお、カッコいい!私も教授を真似て40歳になったらパイプを吹かそうなどと思っていたが、煙に弱い私はついぞパイプを持つことはなかった・・・。

 

ところでドイツではもうすでに黄葉が始まっている頃だろう。街路樹のイチョウやマロニエや白樺はみな黄金色に色づく。今の時期はあちこちの町の広場で収穫祭が開かれているはずである。

 

石造りの古い町の中心にある広場には新酒を振舞う屋台がいくつも並んでいる。10月のヒンヤリとした空気の中、もうコート姿の人々が白く濁った甘酸っぱい香りの新酒を飲みながらタマネギ・ケーキや焼きソーセージをほおばったりしている。

 

今の時期の人気はなんと言ってもアンズダケのソテーだ。バターとニンニクの香りがそこらじゅうに満ちている。そしてあと一月もすればこの秋の収穫祭の屋台は片付けられ、今度はドイツでもっとも煌びやかなクリスマスマーケットの季節が始まるのだ。

 

今年11月に、私は久しぶりにドイツに出張することになった。数日という短い期間ではあるが通訳として企業訪問に随行する。

 

きちんとしたドイツ語を使えるだろうかなどと少々緊張もしているが久しぶりなのでかなり楽しみにもしている。もうビール祭りや収穫祭は終えているだろうし、クリスマス・マーケットはまだ準備中に違いない。

 

4年ぶりのドイツの空や木々やひんやりとした空気は私の記憶を呼び覚ましてくれるだろうか。私はどんな匂いに振り返るのだろう。黄金色のドイツを満喫してくるつもりである。

 

羅王