エッセイ「ナビゲーション」

ナビゲーション


子供のころの私は授業中にペラペラしゃべるうるさいヤツだった。

それだけではなく、知ったかぶりで、先生の言い付けを守らず、目立ちたがり屋でお調子者で、よく忘れ物もし大声で叫ぶ子供だったのに、なぜか同級生を率いる説得力があった。

 

学校の先生には度々「反省しなさい」と言われた。

だが一体何をしろというのだろう?

反省作文に至っては意味が解らない。

 

ある先生は「ちゃんと反省しなさい。自分が悪かったと罪悪感を持ちなさい」と強要した。しかし、それらの押し付けられた後悔や罪悪感が一度でも私のためになったとは思えない。

 

逆に後年の私は海外で通訳をしたり、現地の観光地を案内するために大勢の人の前で話をしたりした。青年期から壮年期にかけての私の仕事内容は、幼少期に欠点だと指摘されたよくしゃべることや、率先して人を導いて行くことであった。

 

つまり、それこそが私本来の才能だったのだ。

 

私の人生のステージにはそれぞれはっきりした目的地があった。

24歳で退職して上京した私は、大学を卒業し、結婚し、それから渡独した。ドイツ滞在10年後、もう学業を続ける意味がないのに学籍に執着し、倒産によって財政の袋小路に入ってしまった私は目的地を見失っていた。

 

当時私はその袋小路に入り込んでしまった自分に対して怒っていた。

それによって多くの時間を浪費してしまったことを悔やんでもいた。

また家族や友人たちに対しても罪悪感があった。そうやってクヨクヨしていた間、私は前に進むことができなかった。

 

もしも、誰かが私に「道を間違えたお前が悪いんだ。反省しろ!」と罪悪感を押し付けてくる輩がいたなら、その時期の私の環境はもっとドロドロしたぬかるみに変わってしまい、袋小路を出て再出発するのがずっと遅くなったに違いない。

 

私と妻の一致した見解は「すべきことは心機一転。顔を上げて進むことだけ」だった。それだから前に進めたのだと思う。

 

帰国して関西の住人になったとき、かつて考えていた目的地とは大きく異なる場所に到着した自分を発見して驚いたが、どんなときにも必ず私にとっての優れた案内人やナビゲータが現れた。

 

そして、

「私が決して道に迷ってはいないこと」

「今の私のままでいいのだ」と教えてくれた。

 

イメージしただけで

心に光が差し込むようなワクワクする目的地。

 

それが私を導くナビだ♪

 

たとえ道に迷っても、失敗したり挫折して目的地を見失った気がしても、たとえ誰かに迷惑をかけたり損害を与えたとしても、ただ、自分の前向きな気持ちを見失わなず、前進すること。

 

そうするときだけ目的地は近づいてくる。

 

私は自分の目的のためには人に迷惑をかけたり、損害を与えていいと思ったことはない。損害を与えた人に謝る必要や補償する必要がないとも思っていない。ただ次のステージへ進むことが大事なことであり、罪悪感が私をそのステージへと導くことはない!と思っている。

 

車のナビが、曲がるべき道を間違えた私を「バカ野郎~!なんで通り過ぎたんだ?お前がいつもボ~っとしてるからだ!」と罵るなら、短気な私はすぐにそのナビを壊してしまうだろう。

 

市販のナビは

まるで私が道を間違ったことなど気付かなかったかのように

淡々と次のナビを始めるだろう。

 

そうだ。

私のやることはいつも同じだ。

 

心機一転。顔を上げて進むことだけだ♪

 

占い師☆羅王