エッセイ「Not For Me」

Not For Me

 

若い頃「努力」という言葉が好きだった。

それが素晴らしいと素直に信じていたものだ。

 

親も教師も世間も口を揃えて

「努力しなさい」

「そうすれば目標に到達できるし夢も叶う」

と子供の私に教えていたからだ。

 

私自身も自分のことを

努力家である」と勘違いしていたが、

今思えばそれは「その気になれば自分は何でもできる奴だ」

という思い上がりだったのかもしれない。

 

実際は好きなことには夢中になったが

努力などしたことはなかった。

 

妻と知り合ってまもなく彼女がこんなことを言った。

「努力なんて言葉、ダイッキライ!」

「努力よりは才能でしょ」

 

私はその過激な発言にギョッとしたことを覚えている。

「努力」とは何だろうとふと考える。

 

私は中学校から高校卒業まで5年間新聞配達をしていた。

家が貧しかったので配達で稼いだお金で何でも買えることは私にはとても嬉しいことだった。

 

眠いのは眠いが毎朝自転車をこいで体力もついたし何よりも自分で自分のことを賄うという充実感があった。他人は「努力したね」と褒めてくれるがこれを「努力」と呼ぶかどうかはちょっと疑問だ。

 

時間を進めて次は高校を卒業して数年間の会社勤めの後上京した。大学に進学したのだが手持ちの金は僅かである。勉強しながらアルバイトをしなければならない。

 

と言うわけで大変きついが時給が抜群にいいという運送会社の夜間荷分作業のバイトに行ったが数日でやめた。

 

その後夜間の警備員の仕事も数日でやめた。

肉体労働も警備地の清掃も私には合わなかったし充実感も持てなかった。

 

つまり「努力できなかった」のである。

 

「研究者になるぞ」という途方もない目標を持って大学に進学した私は卒業をするにはしたが結局「努力する」ことはできなかったのだ。

 

期末テストの時期になるとせっせと図書館に通い参考文献の本を大量にコピーしては製本(興味がある)に精を出し肝心の成績はさっぱりだ。

 

また英語の試験の前日に友人に借りたワープロで覚えるべき英文を打つのに夢中になって試験勉強にはならなかった。

 

「教授になる人は子供の頃からそういう人なんだと思うよ」

とその時妻は言ったが私は

「ウルサイ!」と怒鳴って聞く耳を持たなかった。

 

結局、私は好きなことしかしてこなかった。

 

好きなことならいくらでも頑張れるし

充実感もありその結果もついてくる。

 

それが現地のガイドであり、

ドイツ語通訳であり、

占い師なのだ。

 

今振り返ってみても

努力しなかったことで挫折を味わったことはない。

 

大学院受験に失敗したり、

経営に失敗して無一文になったりと、

似合わないことはことごとく行き詰まった。

 

誰の人生でも、

何かが上手くいかないという現象が起こる理由は、

もっと頑張れ!

努力しろ!

というメッセージではない。

 

それが似合わないぞ、というサインだ。

 

それが「Not for me」

つまり

自分のために用意されたものではないことだ

と気付かせるためなのだ。

 

羅王☆彡ラ(^王^)ノ