エッセイ「夏休みの宿題」

夏休みの宿題

 

連日35℃を超す猛暑が続いている。

オフィスの行き帰りにほんの10分歩いただけで滝のように汗が噴き出す。

 

暑さに弱い妻は

「来年からは日本で夏を過ごすのは嫌だわ」

とまるでセレブ妻のように海外での避暑を要求してくる始末。

 

それにしても子供の頃は気温が30℃を超えると「こりゃ大変だ」と話題になったものだ。エアコンを備えている家など見たこともないし、それでもあれこれ工夫してなんとか夏を凌いでいた。

 

子供の頃の夏休みはどうしてあれほどワクワクと私の世界を刺激してくれたのだろう。記憶の中の私はまるでインド人のように真っ黒に日焼けしイガグリ頭で毎日朝から晩まで近所の公園や海や野山を駆け回っている。

 

ラジオ体操や海水浴、虫取りや魚釣りや肝試し、花火、夏祭りに盆踊り。イベントは満載だった。しかし、そんな楽しい生活も決まって最後の一週間には一変してしまう。そう・・・「宿題」。これは地獄だ!

 

自慢ではないが、私は毎年夏休み最後の一週間になるまで一度だって宿題に手をつけたことはない!結局焦りまくって母や兄にウルサク助けを求めて冷たく断られしょんぼりと机に向かうことになるのだ。

 

「嗚呼、宿題のない世界に行きたい」

イガグリ頭で真っ黒い顔の私は天井を睨んでため息をつくのだった。

 

「私の人生の宿題(使命)は何だろう」と考えることがある。

 

もしも人生の残りが三ヶ月で、

その三ヶ月間を健康で金銭的にも自由に過ごすことが許されるとしたら人は一体何をするだろう。

 

今この人生でやり残したこととは何だろう。

 

おそらく、日ごろ気にかけていたこと、勇気がなくて出来なかったこと、今までやりたくてできなかったこと、周りの家族や友人と過ごしたり、片付けておきたいことを片付けるのではないか。

 

つまり、それが「人生の宿題」ということだ。

 

私はきっと家族を連れて旅をするだろう。今まで行って楽しかった場所やまだ行ってない場所を巡ったり、あとは自宅で普通に笑って普通に日常を過ごすだろう。

 

それを「宿題」だとすれば、「宿題」とは子供時代の「しなければならないことをする地獄」なのではない。自分やその周囲が幸せであるためにやりたかったことを「やり遂げる」ことなのだろう。

 

そうか!ここまで書いてひとつの矛盾に気がついた。

 

記憶の中の私の夏休みは、最後の一週間は宿題地獄だったと書いた。

 

だが、たとえ子供時代の夏休みをもう一度繰り返せるとしても、泣きべそをかきながら机に向かう私を改めて優等生としてやり直そうとは思わない。

 

インド人のように日焼けしたその小さな背中も含めてキラキラと輝いて精一杯生きていた愛おしい日々なのである。

 

羅王

 

2016年8月